暦本純一さんにとってのHHKB、そして「インターフェースとしてのキーボードがなぜ優れているのか」

暦本純一さんにとってのHHKB、
そして「インターフェースとしてのキーボードがなぜ優れているのか」

HHKB Life

人間とコンピューターの一体化によるヒューマンオーグメンテーション(人間拡張)研究の提唱者であり、スマートフォンにおけるマルチタッチインタフェースの基本である「スマートスキン」の発明者でもある暦本純一さんは、情報工学の分野における世界的なトップランナーの一人です。現在は主に東京大学大学院情報学環教授、ソニーコンピュータサイエンス研究所副所長という立場で研究活動に勤しむ暦本さんに、ご自身とコンピューターをつなぐインタフェースとしてHHKBを愛用する理由を聞きました。

和田英一さんの「馬の鞍」に感動して
購入した初代モデルは今も稼働中

暦本純一さんの研究分野はヒューマンインタフェース、つまり人間と機械(コンピューターとそれを取り巻くテクノロジー)の関係全般と、そこから生まれる「人間の能力拡張」という可能性の探求です。スマートスキンによるマルチタッチの実現は、過去における大きな実績の一つといえます。では、暦本さんの目下の具体的な研究テーマは何でしょう。

「各種の人間拡張研究を進めていますが、最近は人間とAIの融合に着目しています。たとえば、『サイレントボイス』といって、いわゆる“口パク”だけで音声コミュニケーションできないだろうかということを、センシングとディープラーニングを組み合わせて試みています。そうすれば屋外でも他人に声を聞かれずに情報を入力できるのではないか、みたいなことを考えているので」

暦本純一さん(東京大学大学院情報学環教授、ソニーコンピュータサイエンス研究所副所長)

さわりを聞いただけでも、人間とコンピューターの接点のあり方は一般の人が想像するよりずっと多様で、固定観念に縛られる必要はないのだということがわかります。

その一方で、インタフェースの長老格といえるキーボードも暦本さんの仕事に欠かすことはできません。世界中のコンピューター関係者の多くがそうであるように、暦本さんもキーボードを通じてコンピューターに初めて接し、以来理想のキーボードを探求し続けてきました。暦本さんは先頃、その過程を綴ってwebメディア「Moovoo」に寄稿しています。

東大教授のUI原体験は紙キーボード 愛用のHHKBを語る【Moovooモノ語り】

「あの記事に書いたように、僕の最初のキーボードはNHK教育テレビ『コンピューター講座』のテキストの巻末に折り込まれていた、キーボードの絵が印刷された紙なんです。1970年代のことですから、テレタイプ端末のキーボードでした。その紙を叩くところからやってましたね」

続いてオリベッティの機械式タイプライターを手に入れた暦本さんは、英文をタイプすることを通して、キーを逐一見ることなく入力するタッチタイピングを身につけます。そしていよいよ80年代のマイコンプームのとき、コンピューターに接続したキーボードに触れる機会が訪れました。暦本さんの今に直結する出会いです。

「東京工業大学の学生だった頃、研究室で最もよく使っていたのはDEC(ディジタル・イクイップメント・コーポレーション)のVT100という、歴史上有名な端末のキーボードです。それを学生時代にずっと叩き続けて、それからSunのワークステーションなどを経てパソコンに至るという流れです」

この頃、暦本さんが影響を受けたのが、ほかならぬHHKBの生みの親、当時の東京大学教授(現在は名誉教授)の和田英一さんです。

「私は学生のときから和田先生の研究会に参加したり、先生が雑誌『bit』に連載されていた文字コードやキーボードの話を読んだりしていました。先生が書いたキーボードの論文も読みました。コンピューターの機種ごとにキーボードが違うのはけしからんとか、Sunのキーボードは比較的いいとか、そういうことを書かれていましたね」

暦本さんは和田さんのキーボード論に深い共感を覚えました。ちょうど同じような思いを抱いていたからです。

「修論の頃はプログラムをVT100で、日本語の文章はPC98で書いていました。VT100のキーボードはお金をかけてしっかり作ってあったのですが、一日打つと指がへこたれるくらいキーが重いんですね。でも、その影響で私もしっかりしたタッチのキーボードが好きになっていました。ところがPC98のキーボードはヤワくてヘコヘコした感じで、どうしても物足りないんです。以来、パソコンが普及していくにつれて付属のキーボードもゴムのぷにょぷにょした感触のものが多くなって、これはいやだなと思っていました」

そこに登場したのが、和田さんが理想とするキーボードをPFUが製品化した、HHKBの初代モデル「KB01」(1996年発売)です。

「ついに和田先生が本気で究極のキーボードを作られたというので、出るなり私も買いました。打ってみるとスコンスコンという感じで、適度な感触があるけど疲れないというバランスがすごいなと思いましね」

1996年に発売されたHHKBの初代モデル「KB01」。

「それと何より、和田先生が考えた無駄のない配列。まあ無駄がなさすぎて矢印もないわけですが(笑)、プログラマーはあまり使わないテンキーがなくてコンパクトにまとまってるところもすごくよかった。コンピューターサイエンスをやっている人やエンジニア、プログラマーのために作られたキーボードだと思いました」

暦本さんが購入した初代モデルは、25年経った今でもまだ現役だそうです。

「サーバーのメンテ用に使っています。25年前のキーボードなのに、ちゃんと文字が打てるのは驚異的ですね。つながっている先のコンピューターは何度も変わっているわけですから、HHKBはまさに和田先生の言う『馬の鞍』です」

この写真で暦本さんの手元にあるのが25年経って今なお現役のHHKB初代モデル。

4か所の仕事場のデスクすべてに
「HHKB Professional Hybrid Type-S」を置く

初代モデル以来、HHKBは暦本さんのメインキーボードとなっています。そして現在は同じHHKBを4台所有し、4か所のデスクに置いているといいます。

「東大教授のほかにソニーコンピュータサイエンス研究所京都研究室のディレクターをしている関係で、今は勤務先が東京と京都、家も横浜と京都の2拠点になっています。つまり自分が行く可能性のある机が4つあって、それらを全部同じ環境にしています」

「すべて『HHKB Professional Hybrid Type-S』の無刻印(英語配列)で、カラーは墨です。コロナ禍で家にいる時間が長くなったので、思いきって4か所、コンプリートしました(笑)。こうしておくと非常に気が楽です。どこでも感触が同じなのはもちろんのこと、Bluetoothのペアリングを変えればコンピューターが何台あってもぱっと切り換えられるので、机の上にキーボードが1台あれば事足りますから」

4か所ある暦本さんのデスクの一つ。どのデスクにも「HHKB Professional Hybrid Type-S」の無刻印・墨モデルが置かれている。デスク一面の“黒”については後述。

いつでも英語配列のHHKBを使えるということは、暦本さんのようにタッチタイピングをマスターしているプログラマーにとって、より大きな意味があります。

「VT100などで育ちましたから、国産キーボードのJIS規格だと記号の位置が少しずつ違うのがつらいところなんですよね。『9』の上の記号が『)』なのか……というような。Windowsのパソコンを買うとどうしてもJIS規格のキーボードが付いてくるので、まず刻印を無視してソフトで英語配列に設定を直してから使うことになります。ただ、タッチタイピングなのでキーを見ることはないものの、やっぱり微妙に気持ち悪いというか、精神衛生上あまり好ましいことではないので(笑)」

プログラマーのために合理性を突き詰めたHHKBの英語配列。「(」「)」はそれぞれ「9」と「0」の上にある。

その点、端末4台まで無線接続が可能で、切り替えが素早くできるHHKBがあれば、Windowsを含む複数のパソコンを使う場合にも問題は起こりません。ちなみに暦本さんは、あるアイテムを併用することで、Type-Sの優れた静音性能をいっそう活かして活用しているともいいます。

「机サイズの巨大マウスパッドを敷いています。左右が120センチくらいあるゲーマー向けのマウスパッドで、マウスが机に触れるときのかちゃっという音が吸収されるのに加えて、キーボードの音や振動も吸収してくれます。Type-Sなのでもともと音は小さめですが、キーボード本体が静かでも机が共鳴しますよね。このマウスパッドを敷くとそれがなくなるので、非常におすすめです」

先の写真の“一面の黒”は机サイズの巨大マウスパッド。これを使うことでType-Sキーのサイレント性能を極限まで引き出すことが可能。

キーボードは入力装置にして命令装置。
脳の分業化という離れ業も可能にする

ところで、キーボードはこれからも人間とコンピューターをつなぐインタフェースの主流であり続けるでしょうか。それとも、いつか別の方法に取って代わられるのでしょうか。ぜひ暦本さんにうかがいたいところです。

ヒューマンインタフェースの最先端を行く暦本さんのキーボード論とは?

「もしもキーボードに代わるとしたら音声入力だと思います。私も実際、音声認識で原稿を入力してからキーボードで直すということをしています。それに、スマートフォンの入力はある意味でキーボードではなくなっているともいえます。ただ、『確実に入れるべき文字が入る』という意味では、それらの方法ではなかなかキーボードを凌駕することはできません。『入れたいもののボタンを確実に押したときだけそれが入る』というキーボードの確実性を再現するのは、ほかの手段ではけっこう困難だと思います」

「たとえば、プログラミングで1文字間違えても困るというようなケースを考えると、音声でプログラムを入力するというのはなかなかできないし、しようとも思わないでしょう。唯一可能性があるとしたら、プログラミングそのものをAIがやるようになったときに『これこれこういうプログラムを作って』と、AIと会話をすることだと思いますが、それはプログラミング自体がまったく別のものになった場合の話です。その点で、音声入力はプログラミングよりは文章のほうに向いているかもしれません」

なるほど、たとえば小説を音声入力で執筆するということならばイメージできるような気がします。

「ところが音声の場合、編集コマンドをどうするかという問題が、やっぱり残ります。1文字を取り消したいと思って『1文字取り消し』と音声で命令すると『1文字取り消し』と書かれてしまう、というような。ですから、たとえば私が30年来使っているテキストエディターの『Emacs』で『コントロール+何々』というコマンドをたくさん使うことができるように、キーボードは文字入力装置であるとともに、コンピューターに多様な命令を一瞬で入れられる命令装置でもあるということですよね」

そう聞くと、手元のキーボードががぜん頼もしく見えてきます。キーボード付きのタブレットが登場しているのも、単なる流行ではないのかもしれません。

「タブレットはどうしても、ブラウジングなど情報を受ける側という感じになりますね。テレビを観たりYouTubeを観たり、あるいはTwitterなどで短いメッセージを書く程度という。一方キーボードは本格的な文章を作成したり、プログラミングするなど、こちらからコンピューターに何かを入れる装置です。キーボードがなくなると、情報を作成するのではなく、ただ視聴者的に情報をもらうほうにバランスが偏ってしまうでしょう。それはちょっと寂しい気がしますね」

「特にプログラミングに関しては、まだまだキーボードでコードを入れることが基本なので、キーボードなしだとコンピューターの使い方自体がプログラミングから遠く隔たったものになると思います。その意味でも、やはりタブレットもキーボードが付いていて打ち込めるほうがよいのではないかと思います」

無刻印のHHKBをタッチタイピングで自在に操る暦本さん。

では、キーボードでコマンドや文章を入力するという方法によって、逆に人間にフィードバックされる特有の働きや利点はあるでしょうか。

「タッチタイピングに関していえば、打っている間に次の文章を考えているというような、パラレルな感覚があると思います。スマートフォンの場合は1文字ごとに目で見て確認しますが、タッチタイピングでは頭に浮かぶのが単語くらいで、あとは指が動いていますよね。昔のプロのタイピストって、手書き原稿をタイプする仕事の最中に隣の人としゃべってるんですよ(笑)。脳が完全にパラレルに動いている。そういう、脳の分業化みたいなことをサポートできるのはキーボードの特徴かもしれません」

「それと、キーボードの場合はスマートフォンと違って、打てたかどうかが触感でわかります。キーを押したときのタクタイル感があるので、目が介入する必要がないわけです。そのあたりのことも脳の分業化につながっていると思います」

ストロークは深いのに使う力は最小限。
HHKBが疲れない秘密はそこにある

逆にいえば、キーボード本来のそうした利点を十全に活かせる製品が「よいキーボード」といえるのかもしれません。その点でのHHKBに対する暦本さんの評価はどうでしょう。

「HHKBが採用している静電容量無接点方式の、キースイッチ特性を表す曲線がありますよね。あの曲線で押下圧がフッと下がるところからがスイッチング領域なので、『ここで打てた』ということがわかるんですよね。触感によってこの曲線上のどこにいるのかがわかるので、『もうちょっと指が進めば文字が入る』ということを察知できる。その結果、無駄な力を入れなくても入力していくことができます」

HHKBのキースイッチ特性を示すグラフ。左がノーマルキー(キーストローク約4mm、押下圧約45g)、右がType-Sキー(キーストローク約3.8mm、押下圧約45g)。ともに押下圧のピークを過ぎた下り勾配にスイッチング領域があるため、慣性力により完全なスイッチングが可能です。

「HHKBの場合、しっかりしたストロークがありながら、おそらく指の力は最小限しか使っていない。HHKBを長時間打っても疲れないというのは、そういうことだと思います。逆にノートPCのキーボードなどは『押しきらないと入らない』という前提で打ちますから、ストロークが短くても疲れてしまう。HHKBのような設定のキーボードで、キーを底まで打ち込んでいる人はたぶんいませんよね」

それが静電容量無接点方式に特有の、指だけが空中で踊っているような感覚の秘密でもあるということでしょう。タッチタイピングに長けた人ほど、あるいはヘビーユーザーほどHHKBを支持する理由も、おそらくそこにあります。

指が空中で踊っているようなタイピング感覚はHHKBならではのもの。

「人間がものを扱うときの能力というのは、実はものすごく巧みだと思うんですよね。ほんの少しの圧力の変化などを感じ取ることができる。キーボードも楽器のように、設計の微妙な違いで疲れる・疲れないの差が出てくるのだろうと思います」

「ですから、その人がどのくらいの量の文字を打つかにもよりますが、キーボードで疲れたくないと考えるなら、HHKBをおすすめします。よく、作家がモンブランの万年筆を使うのは疲れないからというような話を聞きますが、キーボードも同じです」

お話をうかがって、HHKBが支持される理由をより明確に言語化できたように思います。インタビューの終わりに、暦本さんが今後HHKBに望むことをうかがいましょう。

「最近の自作キーボードブームで皆さん、謎な形状のキーボードを作っていますよね(笑)。うちの学生にも自作している人がいますが、平面ではなく自分の手の形状に合わせるというように、まず形をいじる傾向があると思います。ですからHHKBに対しても、左右に分かれているとか、キーの列がちょっとバンクしているとか、そういう要望は実際にあると思います」

「もちろん、HHKBがマニュアルミッションの2シータースポーツカーのようなものであるということは理解していますが、コロナ禍でこれだけデスクに向かう時間が長くなると、そうした“究極の疲れないラグジュアリーキーボード”は私も欲しい気がします。少しバンクさせるだけでもかなり感触は違うと思いますし、左右分割型も磁石でぱちっとつながって普段は従来と同じように使えるとか、未来に向けてご検討いただければ(笑)」

貴重なご意見ありがとうございます。参考にしたいと思います。
最後に、暦本さんが手がけている最新の研究について、改めて内容をうかがいましょう。

「一つは『ヒューマンAIインテグレーション』といって、人間の能力とAIのディープラーニング能力をどう結びつけるかという研究です。冒頭で触れた『サイレントボイス』はその典型で、超音波エコーによって人間の口の中で超音波のイメージを取り、それをディープラーニングに直結すると代わりにしゃべってくれるとか、音声入力には外で使いにくいという制約があるので『声だけれど声を出さない』で入力するとか。いずれもディープラーニングを前提にしたインタフェースという方向です」

超音波エコーで口の中のイメージを取る「サイレントボイス」の実験。(暦本さん提供)

「もう一つが『テレプレゼンス』というのか、遠隔で没入感を得る研究で、たとえば人間にカメラを付けて、そのカメラで撮れる映像の情報からその人のいる世界を作り、遠隔にいる人がその中にジャックインする(入り込む)というものです。遠隔地の人間やロボットとつなぐことで、空間の壁を超えて協業作業をしたりコミュニケーションしたりする、そういう方向の研究にも力を入れています」

最先端のさらに先を行くような暦本さんの研究が近未来の社会をどう変えていくのか、心して見届けたいと思います。ありがとうございました。



執筆者
石川光則(柏木光大郎)

編集者、株式会社ヒトリシャ代表。高畑正幸著『究極の文房具カタログ』やブング・ジャム著『筆箱採集帳』の編集、ANA機内誌『翼の王国』の編集執筆など、出版物やwebを中心に活動。
編著に『#どれだけのミスをしたかを競うミス日本コンテスト』(KADOKAWA)がある。