HHKB HISTORY ~HHKBの軌跡~
出発点は和田氏の「Alephキーボード」
そもそもの発端は、東大名誉教授の和田英一氏が「マイキーボードを作りたい」と考えたことでした。和田氏は日本のコンピューターのパイオニアといえる計算機科学者。早くも1960年代半ば、個人用計算機(現在のパソコン)の出現とそれらが電線でつながること(同じくインターネット)の重要性を説いた和田氏は、長年コンピューター研究の中枢で活躍を続け、90年代までにはプログラミングとその周辺分野に多大な功績を残していました。
ところで、コンピューターのプロフェッショナルである和田氏はまた、UNIXのプロフェッショナルユーザーでもあり、コマンドを入力するためのキーボードは最も身近な道具の一つでした。しかし一方で、90年代までにパソコン本体が多様化するとキーボードにもさまざまな規格が並立するようになったため、「パソコンが換わるとキー配列も換わる」という事態が生じるようになりました。また、プロの目には無駄としか映らないファンクションキーが増えたり、あってほしい位置に必要なキーがなかったりと、既製のキーボードは皮肉なことに、熟達者ほど使いにくさを感じるものになりつつありました。
和田氏が考案した「Alephキーボード」のキー配列(1995 WIDE 報告書 第19部「個人用小型キーボード」より)。
プロが必要とするキーのみをタイピングしやすい位置に配置した。左右への出っ張りもなく、シンプルこの上ない。
もっと詳しく → PFU「和田先生関連ページ」
そこで和田氏は1992年に論文「けん盤配列にも大いなる関心を」を発表してこの問題への注意を喚起するとともに、和田氏にとっての理想のキー配列を備えた「マイキーボード」のアイデアを提示しました。さらに和田氏はこのアイデアを発展させ、3年後の1995年にはいったんの完成形として厚紙の模型を作るまでに至ります。「Alephキーボード」と名付けられたそれは、ASCII配列(英語配列)を基本にしながら、コンピューターのプロが打鍵しやすいよういくつかのキーの配置を最適化したものでした。また、不要なキーを削ぎ落として必要最小限に絞っていたため、全体の配列はおそろしくシンプルで、持ち歩けるほどコンパクトでもありました。この「Alephキーボード」、すなわち和田氏の哲学を反映した「マイキーボード」が『Happy Hacking Keyboard』(以下、HHKBと表記)の原型です。
製品としての「理想のキーボード」開発がスタート
1995年5月、和田氏とPFUの技術者たちが出会います。最初の会見の席上、和田氏は厚紙で作った「Alephキーボード」の模型を前に、プロのUNIXユーザーが最もタイピングしやすいキーボードとはどういうものかを技術者たちに語りました。PFU側もかねて現在のキーボードの弱点、すなわちモデルチェンジのたびにキー配列が変わることや、不要なファンクションキーで肥大してデスク上のスペースを取りすぎることなどに疑問を抱いていたため、和田氏の哲学とアイデアにすぐさま共鳴。さっそく製品化に向けての開発チームを発足させ、試作に取りかかりました。
和田氏と開発チームが目指したキーボードの要件は、おおよそ次のようなものでした。(1) 基本的にASCII配列とする。(2) 十分な深さのストロークがある。(3) 持ち運びに適するくらい小さく軽く、かつ十分な強度を保つ。これらを実現するために、開発チームは既存のキーボードをカットしては組み換え、和田氏と意見交換をしながら製品化のための試行錯誤を続けました。最も肝心のキー配列については「Alephキーボード」の配列をベースに、「ControlキーをAの左に配置する」「ESCキーを1の左に配置する」「Returnキーを一段分にしてその上にDelキーを配置する」「テンキー、ファンクションキーなどは不要なので省く。ただしファンクションキーを使用するアプリケーションのためにFnキーを設置する」という方針を定めました。そして開発スタートから1年半後の1996年秋、製品化前の最終試作機が出来上がります。それはサイズ294x 110mmと、ほぼA4用紙半分のコンパクトなキーボードでした。
和田氏が厚紙で作成した「Alephキーボード」の模型。これが開発の出発点となった。
「Alephキーボード」のキー配列を基本に、製品として現実的な配列を目指し試行錯誤を続けた。写真は1995年10月に作成したモックアップ。
発売までにさらなる変更が加えられた。